心に、素直に。

日々の備忘録

親目線と子供目線。

 

お正月は実家に帰っていた。

 

別に帰るつもりはさらさらなかったのだけど

 

お休みとれますよ、と

その時間を推薦されたみたいに

お休みを勧められるまま

有り難く休むことにした。

 

お金も両親がくれた。

 

ただ後ろめたさしかなかったあの頃を思えば

有り難さを感じられることが奇跡のようだった。

 

 

 

家族と話してて真新しいことなんて

あまりないと思っていたけれど

とんでもなかった。

 

最近疑問に思ってたことの答えを

母との会話に見つけた気がした。

 

 

 

自分で自分を責める

という私のお決まりの在り方を

やめたいと思ったり、それもまた責めるという

無限ループみたいなことが

どうやらやっと俯瞰できそうになったこの頃

 

この両親に育てられて

なぜそうなってしまったのかが謎だった。

 

父は確かに怖かった。

でも子育てをした母は

特に厳しい母という印象はなかった。

 

むしろ過保護な傾向の方があったはずで。

 

 

でも、ある場面では

そうではなかった事を思い出した。

 

 

多くの大人の集まりの中に

子供の私を連れてく母。

 

そこでは暗黙の了解で大人しくしてないとまずい

ちょっと特殊な場所

というのを子供ながらに感じるようになっていた。

 

そこだけでかなり沢山の

〝〇〇しなさい〟があったことを思い出した。

 

 

もちろんその場だけではないけれど

真面目な母の子育てが

真面目さを発揮されるような環境では特に際立った。

 

母も必死だった。

 

そっか、ちゃんと育ててくれたんだと

今は思うだけ。

 

でも無意識に

母の〇〇しなさいという

「ちゃんとすること」が目的になったその言葉から

 

ちゃんとしない自分を責めるという教育が

自分の中で始まったのかもしれない。

 

それが今や、ちゃんとしないことに

どれだけ丸を出せるかに重きが置かれてる。

 

そしてそれでも大丈夫だったと知るたびに

自分がどれだけ自分に厳しかったのかとも思うようになったし

 

周りの人の有り難さに気付くようになった。

 

 

その有り難さを分かる為の過去だったんだね。

 

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BsM9TeKnJBT/

#買い出し#井の頭公園#好き#カフェ#癒し#許し#休日#家族なぜか東京に帰るとここへ来たくなる。東京で暮らしていた時に公園の周辺で部屋をかりたかったけれど結局はそれは叶わなかったな。物件を見て回ったのが懐かしい。私は人が苦手だけれどここだけは人が居ても、それが日本人でも外国人でも関係なくみんないることが何一つ問題がないと思える唯一の場所かもしれない、と思う。マライカでフロウライトの天然石を買った。なんでも天才の石らしい。確かにその結晶のカタチは理数系だ。あともう少し材料屋を徘徊して寒過ぎるであろう松本へ帰ることにする。

 

 

 

家族って許せる人が増えると

 

それってなんだか楽しそう。

 

 

 

 

 

 

寝る前にやるといいこと

 

最近、始めた習慣に

夜眠る前に〝今日の感謝を数える〟というのと

〝自分を労う〟というのをやっている。

 

それは本田晃一さんの影響だけど

 

今までの自分にとって

〝自分自身を労う〟ということは

できなかったなと。

 

自分を大切にすることを意識し始めてから

それだけは出来なかった、というより

したくなかった。

という方が正解かもしれなくて

 

自分のことが嫌いで

鏡を見る度に自分の醜いと感じたりする所からの

スタートだし、

 

いつも気にしてることは〝人からどう見られているか〟だったし

〝私のせいで〟と自分を責めるのが普通だったし

傷付くことが、人が怖かった。

 

それらを変えるには

たくさんの経験と時間が

わたしの場合には必要だったってことにしてる。

 

だから、誰と一緒のいる時間が長いのかは

結構重要で

自分には出来なかったことができるようになったのは

すでにそれが当たり前に出来る人と一緒にいることで

自分にもその当たり前が伝染したと思ってる。

 

団塊の世代に育てられて

その価値観に染まり

悟り世代の価値観に

新しい色を見せられたようなはざまの

 

移住してから確か今年で4回目の冬。

 

自分を大切にすると決めて4年目の冬。

 

 

頑なさで頑張って仕切りにやってきたことも

今の私にはもう出来ない気がする。

何かになる為に一生懸命自分を変えようとしてた。

大切にする為に大切に出来ないことを嘆く悪循環が終わっていく。

 

 

居心地の悪い新しい習慣が

居心地が良くなるまでするなら

それが変化だった。

 

 

☆☆☆

 

 

昨日の晩、「バーニング」という韓国映画を少し見た。

 

村上春樹の「納屋を焼く」という短編小説の映画化で

来年劇場公開するらしい。

 

 

 

全編見れなかったけれど

引き込まれるような美しい映像に

映画が芸術というのを

移住してから忘れていた。

 

私がしがみつくように写真を撮っていた頃

自分の目に沢山の美しいものを焼き付けるように撮っていた。

 

地を這うように、地に塗れるように

本当にそうゆう感覚でやっていた。

撮影の後は足元が汚いとか、葉っぱ塗れとか

地面すれすれで撮ってたからだけど。

 

あの頑なさは、

執念という怨念じゃなかったのかと今は思わせる。

それは自分を縛り上げた黒魔術のよう。

 

でもその想いがどんなものであれ

行動できていたことに涙が出る。

あれはあれで素晴らしい。

 

美し過ぎて、醜すぎて。

 

 

ルームメイトが映画の影響を受けて

キッチンで藍染しながらクイーンを聴いてる。

 

 

最近はめっきり内向きの私だけど

映画、悪く無いね。

 

私が見たいのはどんなものだろうと

今探して見つけたものは

 

過去に起きた

醜さや、恐ろしさや残虐さを感じるものかもしれない。

 

 

それは今あるものが

どれほど特別であるか分かるために

 

例えば、毎日お風呂に浸かれる有り難さ。

 

 

ここに有ることの難しさ=ここに有ることの奇跡  by武田双雲さん

 

 

当たり前がどれほど特別かを知る為に

そして祈りに繋がるような

想いを磨くためのものとして

 

お正月は外を覗き見よう。

 

 

祈る想いのブラッシュアップは

アクセサリーという自分の今してることに

繋がることだから。

 

お守りや呪術というアクセサリーの起源。

 

 

自分が無性に理由なく惹かれるものが

繋がりを持たない

独立した点と点に見えても

 

ずっと前から線で結ばれていた

繋がりを持たせられる想いかもしれない。

 

 

まるで夜空に見えるあの星座のように。

 

 

だから、理由なんて

 

要らないんだろうよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夢はなぜ持つの?最近のまとめ

 

昨日書いた、父への電話の話し。

 

好きだけど、続けると辛くなる理由。 - love life,love my world

 

 

なぜ急に電話で父の幸せを確かめたくなったのか?

 

それはこの動画のせいだと思っていて。

 

 

youtu.be

 

 

この中の割と最初の方で

 

 

 

「自分が生贄になる事で

親の機嫌がそれ以上損なわないように、良くしてあげようとする。」

 

って言ってる部分があるんだけど

 

 

自分を責めることが

自分のスタンダードというか

それこそ私、くらいに当然になってた今までがあって

 

初めてそれに疑問が湧いたタイミングで

この動画を見ていた。

 

責める自分の様子↓ 

自分を大切にするって、案外出来てないのかも。 - love life,love my world

 

 

責めることこそ当然。

自分を責めるのは止めましょうって知ってるけど

責めてる状態こそ当たり前になってるから

気付かないというか。

 

 

この動画のお陰で

責めるのを止めないメリットが

過去にちゃんとあったことがわかってから

 

 

その流れで、父に確かめたくて電話したんだなと思った。

 

電話するタイミングでこんなのも聞いてたり

45、 収入のブレーキを愛情に変える | Himalaya

 

 

父が若い頃に自分のやりたい事を犠牲に

家族を養っていた生い立ちから

どこかで家族がいることは

夢を諦める理由になっていて

 

自分のせいで父が不幸せになっていて

 

両親よりも幸せになってはいけないと思っていて…。

 

そもそも箱を開ければそれら全部は

トンデモな幻想でした、というオチ。

 

 

 

それでタイトルのクエスチョンの答えだけど

 

〝夢は、今の自分を変える為に持つ〟

 

という山崎拓巳さんの言葉に出会った。

 

 

夢ってどこか現実味のないものだと思っていた。

今の自分ではない、理想の違う自分を目指すイメージが拭えなかった。

 

 

この言葉を聞いてから、夢は方法なんだと思った。

 

今のそのままの自分を受け入れて、愛していく

その方法の一つに

夢というのがあるんだな。

 

 

自己否定が強いと同じ言葉でも

今の自分を否定する為に夢があるように聞こえてしまう。

 

でも同じ言葉なのに今は

今の自分を置き去りにしない、そこへ一緒に行くんだという感じで

 

この言葉が飛び込んできた。

 

今の自分がいなければ、

夢なんてどーでもいいことだもんな。

 

 

 

 

 

 

好きだけど、続けると辛くなる理由。

 

 

作ったものを大好きな人に

ヘンテコなコメントをもらうだけでもすぐ凹む。

 

 

https://www.instagram.com/p/BmgHn0SlUyQ/

着けるとこんな具合。これはもはや私にとっては御守りだし、なんだろう。凄く自分でいられる安心。

 

 

私は人から評価される為に

好きな事をしてきた経緯があるけれど

 

自分がショックを受けたり

批判されたり、怖く思ったり、不安になったり

 

そうゆう気分の落ち込みに対しての自分フォローや労りが

ずっと出来なかった。

 

〝してるつもり〟

という意識はあったから、また厄介で。

 

好きが続かないのは、その都度気分に飲まれて

好きができる時間があっても

良くない方向で色々考えを膨らませることや

気分を解消させることに

時間を割いてしまっていた事。

 

 

好きな事だからこそ

そうゆうネガティブ達が威勢良くお祭り騒ぎするんだね。

 

 

責めずに、よくやった!と

その日一日を褒めて床につきましょう。

 

 

その1日がどんな1日であっても。

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BrHZmWDni34/

#ブレスレット#アクセサリー#ファッション#ビーズ#ビーズクロッシェ#ハンドメイド#手作り#クラフト#手仕事#スポーツ#フォーマル#オトナ#きれいめコーデ#グレー#オリーブ#オレンジ#ブラック#シルバー久々のシリーズ着手…サイズはビミョーにまちまちなのは手作りだからってことで。

 

 

作ってと頼まれたら、ちゃんと作れるだろうか?とか

間に合うのか?とか

壊れたら?とか

 

作る前に考えすぎる。

 

どれも出来ないことのシュミレーション。

 

やってから考えても遅くないよね。

 

不安に弱いこともあるしね。

 

 

それらを隣にしながらでも、手は動いてくれる。

そして動かし始めたら、不安があったことも忘れてる。

 

 

 

 

 

先日父に電話をして

「お父さんは、家族を作って幸せだった?」と

唐突に聞いてみた。

 

父は普通の幸せを語り

そして恵まれてると言っていた。

 

 

私がこんな質問をしたくなったのは

 

父がまだ若い頃に両親に自分のやりたいことを

反対された話しを聞いていたから。

 

そして私が生まれることで

お父さんは不幸になったんじゃないか、という考えが

ずっと奥の方にあった。

 

 

好きな事をしたいというアクセルと

好きな事をしてはいけないというブレーキ。

 

 

父は父の好きなように生きて

自分の望みをそれなりに叶えていたよね。

 

取り越し苦労の

ブレーキはもういいかな。

 

 

 

 

自分を労わるとどうなるか?

 

 

自分が好きな事をするのは

 

もしかしたら

本当は愛してると

 

誰もいない世界に向けて叫んでるのと、同じことのような気がして

目が覚めた朝。

 

 

何でそんな風に感じたのか分からないけど…。

 

 

 

話は変わって、

 

ここの所ずっと体調が優れず

それでも日々のルーティーンは

私を待ってはくれないことに気付いた。

 

時計とともに、

正確に決められた割り振りを

きっちりみんなが同様にこなして

 

 

生身の体を正確さに合わせて

高度なAIのように

疑問も抱かず当たり前に。

 

 

今までの自分のしてきたことを思えば

体が言うことなんて聞かなくなるのも当然な気もする。

 

それでも、なんで正確に動いてくれないんだって

苛立っていた。

 

苛立って、しばらくしたら

酷くはならずに、この程度で回復してくれることの方が

よっぽど有難い事を忘れていた。

 

 

出来ていたことが出来なくなるというこの機会に

 

みんなもそうだから私も…という自分の当たり前を 

改めて考えたりしていた。

 

 

 

みんなと一緒だから、大丈夫だなんて私の安心が

 

まるで隠れ蓑みたいに見える。

 

だから、本当にその機会に出会った時に

 

脆く崩れ堕ちるようなものだと思った。

 

私の信じた安心はそうゆうものだった。

 

 

 

どんなに優しさを持つ誰かでさえ手の届かない場所にいる

 

弱さを声にできる強い自分の方が

 

よっぽど頼れるんだって。 

 

 

 

それでタイトルの自分を労ってあげるとどうなるかだけど

 

周りの人からもそうしてもらえるってことで

 

話しはびっくりするくらい本当でした。

 

 

自分を大切にするって、案外出来てないのかも。 - love life,love my world

 

 

 

 

自分を大切にするって、案外出来てないのかも。

職場でのこと。

 

自分の間違えをきっかけに

他の人に迷惑をかけてしまうような出来事があった。

 

その出来事を聞いた際に、

血の気が引くような冷やっとした感覚に始まり

 

〝私のせいで〟

〝私が悪い〟

 

が頭の中で鳴り止まなかった。

 

正直、そんな風に責めてる余裕なんてないほど

みんながあたふたする事態だった。

 

無事にいつも通りの体制に落ち着いた時、

勝手に涙が溢れた。

 

泣く程の事ではないのは

分かっていたけれど

 

それが緊張からの解放の涙のような気もするし

悪いことを詫びるようなアピールの涙のような気もした。

 

私だけが悪いわけじゃないのは

自分でも分かっていたし、

周りの人もそうフォローしてくれてた。

 

 

その後、自分が自分に対して言い続けていた。

 

 

〝私のせいで〟

〝私が悪い〟

 

 

というのが、何となくひっかかっていた。

 

 

なぜあそこまで、

自分を追い詰めるんだろうって。

 

もう自分しか、責めてない。

私以外、私を責めてない。

 

漠然と、

自分が自分をひどく責めている事だけが

際立って見えた出来事になった。

 

 

 

それから少し時間が経って

ある動画を見た。

 

世界一ゆるーい幸せの帝王学

本田晃一さんの動画。

 

youtu.be

 

動画の最後の方に

「自分を労ってほしい」というアドバイスがあって

 

自分を大切にするとか

今までもそうゆう事は知ってた筈だけど

行為としてはやれても

思いが伴ってなかったのがバレた感じがした。

 

自分に対して、自分をねぎらうなんて

そんな事、出来なかった。

 

労うほどの大した何かなのか

低いハードルは飛びたくないのか

プライドが高いせいなのか

出来なかった。

 

 

外側で見えたり起こったする

ほんの些細なことに喜んだり、感謝したり

前よりも出来るようになったのだから

 

内側でも

そうしていいんだよね。

 

自分の存在に対して

ほんの些細な事に喜んだり、感謝したり、労ったり…ね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

怯える自分を見つけたら

 

最近、自分が感じてる恐怖に

本当にやられてしまう。

 

きっかけは些細な棘のようなもの。

 

誰かのふとした表情や

行為に私が反応する。

 

でもその些細な事が

とても大きな恐怖に繋がる。

 

だから、どうにかしたいとは

思ったりするものの

 

痛みの後に残るのは

案外傷ではなくて、

 

giftだったりする。

 

 

この世の仕組みや宇宙の話や人間の話

見える事と見えない関係の話しなどなど…

 

先日、名古屋まで行って

話しを聞いてきたのだけど

 

〝自分の〟〝自分が〟と

握りしめている事を

 

これから生きていく上で手放せるかどうかは

とても大切なようだ

 

とはその話からは感じていた。

 

 

それで、私が感じてるその恐怖を

私自身では

 

〝私が〟強烈に感じている、と

思って生きてきてるわけだけど

 


でもこの恐怖さえ

私のものではないのかもしれないと

 

強烈な恐怖と引き換えに思うようになった。

 


誰かに対する不信も

嫌悪も

怒りも

疑いも

そして無視することも

 …

 


そうゆうネガティブと言われて

嫌われるものの

裏には必ず恐れがある。

 

 

そうしなければならないほど

恐れてる。

 

 

私が反応して怖がるそれらは

受け入れないという壁や隔たりのように

他者との距離感を遠ざけるけれど

 

実際、そうゆう役割なのだ。


でも、私がそれらネガティブに

強烈なNOや嫌を突き付けていることには

気付いてない。

 

 

私はその時、何をしてるのかと言えば

ただただ自分の中に蔓延した恐怖に精一杯。

 

 


私の恐怖、

私がなんとかしなければ、と。

 

 

恐れていると

外側の相手は強く見える。

 

 

でもそれは、大人でも子供でも関係ない。

物質的な大きさやチカラではないから。

 

 

私が子供に近づけない理由は

強烈だから。

 

 

泣き喚く、怒鳴り散らす

恨みの目、軽蔑の目

 

 

私の出会う子供たちは

穏やかな子が少なかった。

 

近づき難かった。

 

 
でもそこまで私にとっては強く思えたり、

恐れに見えたりするのは

 

私がそれらに触れたくないからだった。

 

そうする事を私は許さない。

 

 

 

でも、子供だからこそ

守ろうとする力は隠さないし

 

どこかではそのまま全部を

受け入れてもらうことを求めてる。

 

でも私には怖すぎて受け止めるどころか

近づく事も出来なかった。

 

 

 

私が恐れているその相手も

恐れているなら

 

私だけが感じてると思ってるこの恐怖は

本当に私のものなのだろうか?

と思うようになった。

 

 

 

強さの裏にある

あなたが隠した恐怖に

もしかしたら私は触れていたのかもしれない。

 


私の恐怖はあなたの恐怖かもしれない。

 

 
それは、私たちかもしれない。

 

 

私のものでも、

あなたのものでも、ないものかもしれない。