心に、素直に。

日々の備忘録

祈りや願いは、その先の叶うの為じゃなく

 

きなさんという人の

〝祈りの具現化〟の話しを思い出していた。

https://ameblo.jp/kina-0-rainbow/entry-12385983178.html

 

 

 

そこで言っていたのは、

 

〝私たちはいつか誰かの祈りから出来てる事〟

 

という事だった。

 

 

私が簡単にそのことを分かると思えた理由は

 

自分の両親が毎日毎日祈るという事をしてる家に

生まれたからだった。

 

 

 

でも最初から

自分が大切にされていたというニュアンスで

それを理解してるわけじゃなかった。

 

 

 

そうゆう家に生まれてしまった事に

ずっと悩まされて来たからだった。

 

 

自分のことを祈ってると言われるほど

それが煙たく重かった。

 

抱きしめられるほど

それが嘘に見える様に。

 

 

 

後ろめたさ、

やりたくないことをやらされてる感、

軽蔑、

終わることのない正しさの背比べ

などなど…

 

 

両親とは、一つ屋根の下

ずっと居心地の悪さがあった。

 

 

譲らない信念と正義はとても頑なで

太刀打ちできない隔たりの様に思えた。

 

 

そこに分かりあうことのない悲しみがあった。

 

分かってもらえない

受け入れてもらえない悲しみがあった。

 

 

 

でも当時はその悲しみに気付かず、認めずだった。

 

 

 

相手が悪い、私は被害者というスタンスでいると

 

自分の本当の想いには気が付けない。

 

 

 

本当はどうして欲しかったのか?

 

 

両親からの愛が欲しかったのだ。

 

 

 

戦いを挑んだのも

両親に目を向けてもらい一心があるからだった。

 

だから仕掛けてるのはいつも

両親ではなく私の方だった。

 

 

 

 

宗教で祈ることが当たり前の家を離れても

 

というより更に

 

祈られることが煙たく重く感じた。

 

 

そこから離れるほど

祈られることが気持ち悪かった。

 

見えないほど怖くて

何かしなければならないようなプレッシャーだった。

 

 

それは信仰を選ばないことが

両親の持つルールに背くという事に

私の中でなっていたからだ。

 

両親からの愛がもらえなくなる恐怖だった。

 

 

表面的に分かっているのは

煙たい、重い、いや、嫌い、プレッシャー

 

そうゆうネガティブなことだった。

 

 

 

でもそれら全ては、自分が自分を大切にすることで

一つ一つ幕を閉じていった。

 

 

 

だから今は

祈ってもらえるそのことが

ありがたかったし、愛されてる、

というニュアンスに変わっている。

 

 

 

そして今まで感じて来た不幸せとも言える

いろんなネガティブな思いは

 

自分に目を向けてよ!という叫びとか

サインなんだと思うようになった。

 

ちょうど子供が泣いたり

駄々こねたり、癇癪を起こしてるのと同じで

 

それは自分自身からの声なのかと。

 

 

 

 

 

 

戦争文学の一つで

大岡昇平の「野火」という本がある。

 

塚本晋也監督が映画化したものを

 

最近観て、本も読んだ。

 

 

 

映画はどこまでいっても再現だから、

映像の鮮烈さはあっても

どこか違うのだろうと思ってしまうけれど

 

 

時代に残したい、

伝えたいという監督の情熱宿っているのだと思う。

 

 

そうゆう意味で小説とは別物なんだろう。

 

 

文字という静かな媒体ではあるものの

経験した人から生み出されるリアルほど伝わるものはない。

 

 

文章の上手いとか下手とか

そうゆうのでもない。

 

どんな思いで書いてるのかの方が伝わる。

体験した人の情熱の量が強いほど

それが伝わる。

 

例えば、同じ場で経験しても伝わり方が違うのは

そこの違いだと思ってる。

 

 

色んな人を通してその想いを

今の私たちは受け取ることができる。

 

 

伝わる理由は情熱なんだと思う。

 

 

 

すぐに自分の命と直結していた

戦時下で生きていた人たちの真剣さは今は少ない。

 

 

でもだからこそ

当時の人々が願ってやまなかった事は

なんだったのだろうと

 

今の私は考えてた。

 

 

 

あの時生きた人たちと私たちは

関係がないのだろうか?

 

 

この体は本当に私だけの身体、

なんだろうか?

 

この血は本当に私だけの血、

なんだろうか?

 

 

母が私を身篭った時から、

 

私はここに無事生まれてくるようにと

祈られることが始まっていて

 

私の母もまた自分の母に祈られていたはずで…

 

 

 

そしてそのずっと前には

悲惨な状況下だったからこそ

 

真剣に必死に祈ることしかできなかった人達がもっといて…。

 

 

戦争とか

そうゆう時代のものを見ると

 

今の私たちの暮らしがあるのは

そうやって誰かの祈りが

現れた今なんじゃないかと

思わずにはいられなくなる。

 

 

 

あの時代の人達が教えてくれてる事を

今の私たちは忘れてはいけない気がする。

 

 

 

みんなが幸せに生きることを

誰よりも祈ってくれていた時代があったんじゃないか、

というその事を。