心に、素直に。

日々の備忘録

先日、友人がこんな事を言うものだから。

見えない存在と話のできる友人が

この前私にこう言ってきた。

(ちなみに私はそうゆうのは言葉にはできないけど、ある立場で)

 

〇〇ちゃんはエネルギー小っちゃいけど

それ、某学会の影響だよ

 

念がエネルギーを止めてる!

 

 

いやいやいや、

 

そこはもう終わったつもりだったけど…

と言うか、また両親とその件掘り起こしたくなーい

と本音は思ってました。

 

もう名前がそこに残るのはしょうがないし、特に活動もしてないし、

今は穏便にフェードアウトできてるし

脱会手続きとかあえてしなくても、と

そこは放置してたやつでした。

 

(両親含め会員の方は特に悪い人は居ないけど、

それなりに色々と、色々ありました。)

 

そんなこと言われちゃって放置とかできなくなってきたので

 

なんかもうこれは、

ちゃんと形だけでもそうゆうことにしておこう、となり

脱会の手続きをする事にしました。

 

両親にもイヤだなと思いつつも、連絡を取って

そうゆう事をしましたと伝えたら

案の定、嫌悪感満載のイヤな感じの空気が…

 

でも、そこはもうイヤな空気にならないように強引に持って行くことにして

 

案外うまく切り抜けられ、無事ミッション終了。

 

 

 

 

それでその事がきっかけかどうかは分からないにせよ

 

私の中で何十年も

私の振りとしてやってきた

良い人や良い子である事や

嫌われないようにと言う防御体制のような自分が自分にかけてる圧力を

 

自分ではなく外に向けても良いような気がしてきました。

(そうゆうアドバイスも実際もらった)

 

本来は結構サバサバ気しないで相手にきついことも言ってしまうタイプ。

 

ただそれで痛い目にあって

今まで猫かぶっていた、と言う自覚だけはあり

その猫は自分では怖くて取れなかった。

 

 

でも自分が自分でいることへの許可が

やっと降りた感じがして。

 

人からはまた嫌われるかもしれないかな。

 

でももうそろそろ

嫌われてもいいような。

 

許可はそちら側の許可も含まれて

良いも悪いもない。

おりたのは、両方に対しての許可でした。

 

 

某学会で祈ることは両親から学んで

 

これしかない。これが絶対だと言われて育ったから

世界はどこかに答えがあると思って探してきたけれど

 

あなたがそう言うなら、そうなのね、

正解は人の数だけ。

 

と言うのが今の私のいる場所だったりする。

絶対という縛りはきつくてもうイヤ。

 

 

好奇心だけが旺盛で人見知りの私の答えは曖昧で

 

 

実際一人でも、太陽の暖かさと着るものの暖かさを

誰かと一緒にいる時の心の暖かさとして重ねたりして嬉しくなれる程

想像力は豊かだから。

 

この言い方が合ってるか分からないけれど

 

幸せは上のような勘違いでいい気がするんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

星を見に行った夜のこと

5人で車に乗り込み

標高1900mのところまで行く。

 

そこはひらけた駐車場で空がよく見える場所。

 

以前行った時は雲の中だった。

霧の世界。

季節が冬になる前の風は

強く冷たい。

とてもいられなかった。

 

街の明かりも見えなかった。

 

そして今は春。

今日はどうだろう。

 

降りたら

今日も雲の中だった。

 

車のライトが雲に当たって

向こうの方から他の車が来るのが分かる。

 

雲の輪郭がぼんやり見えるのは

街の明かりが暗い空を照らしてるから。

 

 

風が強くて

雲の中でも空に一瞬隙間が出来る。

やっと少し星が見えた。

 

星がゆらゆら動いて見えるのは

早く流れる雲のせい。

 

でも、もうここから見るのは諦めて

帰ろう。

 

それから少し下ったところで

走る車の中から空を見上げた。

 

星が見える!

やっとその姿を眺められる。

木のシルエットの向こう側。

 

しばらくするとまた雲が出てきた。

 

空に穴があいたように、徐々に狭くなる星空を見上げて

みんなが一斉の声をあげた。

 

流れ星だった。

 

星が見えるからと車を止めてもらったのは私だったけれど

 

私だけ見えなかった。

 

みんなおかしくて笑っていた。

私も笑っていた。

 

その時

宮沢賢治の〝雨ニモマケズ〟で始まる詩を思い出していた。

 

私はあの詩が理解できなかった。

 

みんなからデクノボーと呼ばれ

てもいいなんて、

褒められないなんて、

 

そんなの嫌われ者だと思っていたから。

 

 

でも、今日星を見に行ったあの数時間で感じたことは

 

宮沢賢治の残したあの詩の素晴らしさを教えてくれた気がした。

 

 

 

   雨ニモマケズ

   風ニモマケズ

   雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

   丈夫ナカラダヲモチ

   慾ハナク

   決シテ瞋ラズ

   イツモシヅカニワラッテヰル

   一日ニ玄米四合ト

   味噌ト少シノ野菜ヲタベ

   アラユルコトヲ

   ジブンヲカンジョウニ入レズニ

   ヨクミキキシワカリ

   ソシテワスレズ

   野原ノ松ノ林ノ蔭ノ

   小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ

   東ニ病気ノコドモアレバ

   行ッテ看病シテヤリ

   西ニツカレタ母アレバ

   行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

   南ニ死ニサウナ人アレバ

   行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

   北ニケンクヮヤソショウガアレバ

   ツマラナイカラヤメロトイヒ

   ヒデリノトキハナミダヲナガシ

   サムサノナツハオロオロアルキ

   ミンナニデクノボートヨバレ

   ホメラレモセズ

   クニモサレズ

   サウイフモノニ

   ワタシハナリタイ

 

 

 

 

自分の過去を受け入れる

 

自分がその時欲しいものを1つ1つ手に入れてみると

 

自分がなぜそれを欲しがっていたんだろうって

気付くきっかけになる。

 

その時欲しいもの手にして

気持ちよく居られる時もあれば

後悔する事もある。

 

その時失敗したと思っていたら

その先の未来でその失敗が

ただ貴重な経験で

 

自分が経験してきたネタにもなって

上手くいかなかった時の経験は

自分の個性を際立たせるのかな、と思う。

 

だから何度でもトライしてトライしてトライして

 

トライしたら

しなかった後悔が残らず

案外スッキリしてる。

 

自分が自分に結果を残してあげることだけが

自分を大切にしてるって証明じゃないよ。

 

何も残せなくてもいいんだよ。

全く力が抜けるかもしれない。でも

 

その時自分なりに一生懸命やろうとするなら

それでいいじゃないか。

 

 

欲しいものなんて、悩みなんて

 

今と昔で変わっていたりする。

 

ただ今の私は

あの時大事にできなかった自分に会いに行ってる。

 

それはごめんねと、

謝りたくて

わざわざそうしたようにも思う。

 

退けていたその私と今の私がダンスを踊る。

 

結果じゃないよ。

 

今の私が私にしてあげられることは

愛してる証明のためじゃないよ。

 

だって本当はただ一緒にいるだけで

十分なんだ。

 

求めてるものをやってみると

寄り添うだけで十分だってわかるのかもしれない。

 

やらなかったら分からなかったかもしれない。

 

 

過去の痛みは時間が忘れさせる。

 

でも、ごめんねもありがとうも

 

わざわざ伝えに行くと

 

相手は喜ぶよ。

 

そうゆうことの繰り返し、繰り返し。

 

辛いその時は時間に頼ってもいいけど

 

もし元気になったら

自分から会いに行こう。

 

いつまでも過去を

忌まわしいものと嫌わない為にも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

祈りや願いは、その先の叶うの為じゃなく

 

きなさんという人の

〝祈りの具現化〟の話しを思い出していた。

https://ameblo.jp/kina-0-rainbow/entry-12385983178.html

 

 

 

そこで言っていたのは、

 

〝私たちはいつか誰かの祈りから出来てる事〟

 

という事だった。

 

 

私が簡単にそのことを分かると思えた理由は

 

自分の両親が毎日毎日祈るという事をしてる家に

生まれたからだった。

 

 

 

でも最初から

自分が大切にされていたというニュアンスで

それを理解してるわけじゃなかった。

 

 

 

そうゆう家に生まれてしまった事に

ずっと悩まされて来たからだった。

 

 

自分のことを祈ってると言われるほど

それが煙たく重かった。

 

抱きしめられるほど

それが嘘に見える様に。

 

 

 

後ろめたさ、

やりたくないことをやらされてる感、

軽蔑、

終わることのない正しさの背比べ

などなど…

 

 

両親とは、一つ屋根の下

ずっと居心地の悪さがあった。

 

 

譲らない信念と正義はとても頑なで

太刀打ちできない隔たりの様に思えた。

 

 

そこに分かりあうことのない悲しみがあった。

 

分かってもらえない

受け入れてもらえない悲しみがあった。

 

 

 

でも当時はその悲しみに気付かず、認めずだった。

 

 

 

相手が悪い、私は被害者というスタンスでいると

 

自分の本当の想いには気が付けない。

 

 

 

本当はどうして欲しかったのか?

 

 

両親からの愛が欲しかったのだ。

 

 

 

戦いを挑んだのも

両親に目を向けてもらい一心があるからだった。

 

だから仕掛けてるのはいつも

両親ではなく私の方だった。

 

 

 

 

宗教で祈ることが当たり前の家を離れても

 

というより更に

 

祈られることが煙たく重く感じた。

 

 

そこから離れるほど

祈られることが気持ち悪かった。

 

見えないほど怖くて

何かしなければならないようなプレッシャーだった。

 

 

それは信仰を選ばないことが

両親の持つルールに背くという事に

私の中でなっていたからだ。

 

両親からの愛がもらえなくなる恐怖だった。

 

 

表面的に分かっているのは

煙たい、重い、いや、嫌い、プレッシャー

 

そうゆうネガティブなことだった。

 

 

 

でもそれら全ては、自分が自分を大切にすることで

一つ一つ幕を閉じていった。

 

 

 

だから今は

祈ってもらえるそのことが

ありがたかったし、愛されてる、

というニュアンスに変わっている。

 

 

 

そして今まで感じて来た不幸せとも言える

いろんなネガティブな思いは

 

自分に目を向けてよ!という叫びとか

サインなんだと思うようになった。

 

ちょうど子供が泣いたり

駄々こねたり、癇癪を起こしてるのと同じで

 

それは自分自身からの声なのかと。

 

 

 

 

 

 

戦争文学の一つで

大岡昇平の「野火」という本がある。

 

塚本晋也監督が映画化したものを

 

最近観て、本も読んだ。

 

 

 

映画はどこまでいっても再現だから、

映像の鮮烈さはあっても

どこか違うのだろうと思ってしまうけれど

 

 

時代に残したい、

伝えたいという監督の情熱宿っているのだと思う。

 

 

そうゆう意味で小説とは別物なんだろう。

 

 

文字という静かな媒体ではあるものの

経験した人から生み出されるリアルほど伝わるものはない。

 

 

文章の上手いとか下手とか

そうゆうのでもない。

 

どんな思いで書いてるのかの方が伝わる。

体験した人の情熱の量が強いほど

それが伝わる。

 

例えば、同じ場で経験しても伝わり方が違うのは

そこの違いだと思ってる。

 

 

色んな人を通してその想いを

今の私たちは受け取ることができる。

 

 

伝わる理由は情熱なんだと思う。

 

 

 

すぐに自分の命と直結していた

戦時下で生きていた人たちの真剣さは今は少ない。

 

 

でもだからこそ

当時の人々が願ってやまなかった事は

なんだったのだろうと

 

今の私は考えてた。

 

 

 

あの時生きた人たちと私たちは

関係がないのだろうか?

 

 

この体は本当に私だけの身体、

なんだろうか?

 

この血は本当に私だけの血、

なんだろうか?

 

 

母が私を身篭った時から、

 

私はここに無事生まれてくるようにと

祈られることが始まっていて

 

私の母もまた自分の母に祈られていたはずで…

 

 

 

そしてそのずっと前には

悲惨な状況下だったからこそ

 

真剣に必死に祈ることしかできなかった人達がもっといて…。

 

 

戦争とか

そうゆう時代のものを見ると

 

今の私たちの暮らしがあるのは

そうやって誰かの祈りが

現れた今なんじゃないかと

思わずにはいられなくなる。

 

 

 

あの時代の人達が教えてくれてる事を

今の私たちは忘れてはいけない気がする。

 

 

 

みんなが幸せに生きることを

誰よりも祈ってくれていた時代があったんじゃないか、

というその事を。

 

 

 

自分を大切にする事と夢の関係

 

「自分をもっと大切に」

 

前よりもそうゆうことを

身近に見聞きする機会が増えたと思っていて

そうゆう発信をする人もとても多くなった。

 

 

でも他者からそう言われると

なんだか苛立つような、悲しいような

そんな想いがしてた過去。

 

 

自分を大切にする事で

生きやすくなり、苦しみも減るのなら…

これが動機だった。

 

変わりたかった。

現状から抜けたかった。

 

そうゆう理想から

「自分を大切にする」を始めた。

 

 

 

自分を大切にすることの1番初めは

鏡に向かって

「自分を褒める」ことだった。

 

鏡の前の自分にかける言葉を変えていった。

優しさと労い。

 

その行動はしても心内

そんなことしちゃってる自分だった。

 

「うわーっ、ヤバ」と

冷ややかな視線を送るもう1人の自分がずっといた。

 

 

でもそれがその時の私の答えだった。

 

 

自分を大切にしようとする時

どんな反応が出るのか?

感情はどんなか?

 

気持ちよく自分を大切にして

素直に心から自分に対してありがとうなんて

とても言えない

 

そっちが本音だった。

 

だけど行動だけ

とりあえずしてみていた。

 

 

そしてその行動をただ

続けられない感情が出てくるのは

 

本音と違うからだった。

そこでの摩擦や葛藤。

 

 

自分の希望や欲求を叶えようとする時

自分が自分に対してどう思っているのか

ばれてしまう。

 

 

だから「夢を持とう」

なんて言葉が本当は胡散臭く聞こえいたのに

そう思ってることは自覚してなかった。

 

 

ひねくれ者の本音を認めたくはなかったから。

 

 

本音はいつも汚かった。

嫌われるような醜いものだった。

目を背けたくなるような強烈な批判や罵倒の怒りだった。

 

 

 

行動を続けるということは

その本音が私に起こることを許さないといけなかった。

 

 

私が私に対して

その自分が抱く夢や希望を

応援できないと思っている本音達。

 

 

本当は私なんか

それに値しないと思ってる本音。

 

自分が抱く望みを叶えようとする時

そうさせてやらないというもう1人の

冷たい自分が眼を覚ましてしまう。

 

 

だから夢や希望を叶えようとする時に

向き合わなければならないのはその本音だった。

 

 

夢や希望を叶えようとする行動を起こして

どんな思いが出てくるのかが

今自分が自分をどう思っているかの答えだった。

 

 

希望を叶える過程で出てくる

周りの目は自分が自分に向ける白い目だ。

 

人の目から守りたい晒せない

恥をかく自分

失敗する自分

惨めな

情けない

お金がない

頼りない

できない

そうゆう方の自分を守ろうとして来た。

 

プライドとか言われてたりするそれ。

 

 

 

でも何かを叶えようとすると

封印してた

人に見せられないそっちの自分が出てくる。

 

ある時にそっちの自分を自分が

牢屋に押し込んだ。

 

お前がいると厄介だと言って嫌った。

 

そして、その醜い自分がいることを

決して認めたくはなかった。 

 

お前達なんて認めないという自分にしてる批判やチカラが

人の目を気にする原因だった。

 

 

夢や希望を持つことで

行動するプロセスが

もう片方の自分=ダメさや醜さや弱さ

も連れて生きることになる。

 

 

夢を持つそしてそれを叶える時

 

それは

自分が認めない自分を認めるプロセス

 

自分を大切にするプロセスそのものだった。

 

 

 

もし、自分の夢や欲や希望を叶えようとすることに

  

ワガママで独り善がりで傲慢

 

という思いが湧くなら

 

そのワガママで独り善がりで傲慢な自分を

 

許可することがやる事。

 

お母さんは

ワガママで独り善がりで傲慢な子供を

 

叩いて叱るのか

話を聞くのか

放置するのか

抱きしめるのか

甘やかすのか

 

どんな母として

その子供を迎えるのか

 

かかってこいという覚悟と器で

子供の前に立つことと

 

全く同じように

私には見えることだった。

 

 

もっと私を見て

 

もっとかまって

 

もっと話を聞いて

 

そうゆう子供が

 

私の中にはたくさんいる。

 

今の私は

 

その子供達を

 

ワガママで独り善がりで傲慢子供として

嫌う母ではなく

 

それをただ

迎えてみたいと思うようになった。

 

 

 

 

 

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昨日降った雪はもう、昼間の太陽が溶かしました。

 

 

 

 

 

 

 

感謝するといいその理由

  

先月だったか

体調不良で食べることができなくなって

 

体調が悪い時にこそ

食べられる有り難さに気付いたりしていた。

 

動けはしたけれど、

食べたくても食べられないジレンマで

心がやさぐれてた。

 

 

食べたいのに食べられないって結構しんどいな、と。

そこで食べられることは

当たり前じゃないことに気付かされた。

 

 

失ってから気付く大切さ。

 

例えば、何かを失う経験をした人は

そこに当たり前に在ることの有り難さに関して

「ありがとう」の深さが違うと思っていて。

 

 

 

感謝に関して、以前どこかで目にした衝撃の記事というのが

私の中にはあって

 

話の内容は曖昧だけど

 

部屋に入るなりその部屋にはあちこちに

「ありがとう」の張り紙がされていて

 

部屋の持ち主はその後、病気で死んでしまった

 

というような話を

どこかで見たことがあった。

 

読んだ当初は怖いと思っていたのだけど

 

その人がしたかった感謝の形が

それだったのかなと

今は思う。

 

 

感謝がしなければならないものだったり

感謝することで見返りを求めたりする自分自身を沢山知ってる。

 

 

でも、その過程があったからこそ

感謝は深くなる。

普通に生きてる時間が地獄のような時間だったから。

 

そうやって過去にたくさんの葛藤や辛い時間を味わった人ほど

普通が貴重で在ることを知ることになる。

 

上っ面の感謝や見返りの感謝や嘘の感謝から始まっても

その質がやがて上がるのは

 

感謝する程に

無いものではなく

すでにここに在るものを意識できるようになるから。

 

 

感謝という行為そのものが

今あるものにフォーカスさせる行為だから。

 

何もしないと

無いものの方にフォーカスが働くのが普通なのが、人(脳)の仕組み。

 

無い方ばかりに気が行くのは当然の事。

 

 

 

 

 

だから、感謝はするほどに良いというのは

本当だと思ってる。

それは意識すること。

 

 

 

〝意識するとは、自分と関わろうとすること〟

 

 

 

そして、

〝本当に感謝しています〟と

素直に言えるほどに

 

幸せを感じる度合いも上がっている。

 

深い感謝を感じられる人ほど

簡単なことに幸福を感じられる。

 

普通の中にどれだけ見つけられるか

どれだけ気付けるか

 

 

どれだけ見失っていて

どれだけ見てないかは

不幸せと不満の世界。

 

 

 

ありがとうと言えるそのタイミングも

今しかない。

 

今日のありがとうと

昨日のありがとうは違うから。

 

それは、本当は今しか言えない。

 

目の前からなくなってしまってからじゃもう遅い。

 

後悔という思いを知っていると

 

今そう言えることに想いの力が加わる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コンプレックスとの付き合い方

 

昨日の晩に見たTVの話し。

 

たまたま付けたTVが「クローズアップ現代+」で

ボディ・ポジティブという聞き慣れない言葉をテーマに番組が始まっていた。

 

www.nhk.or.jp

 

 

コンプレックスについての新しい付き合い方や考え方を

お笑いを仕事にする2人のゲストを交えながら

 

 

今流行ってる〝コンプレックスはアートなり〟と歌う

女性バンドのchaiを取り上げて

 

youtu.be

 

インタビューやchaiに影響を受けた女の子を追いかけていた。

 

 

 

私もコンプレックスの塊で

それに苛まれて生きて来た。

 

ルックスに自信がないというより

それを責めてきた。

自分が憎くてたまらない感じと言えば良いのか。

 

太ることが恐怖で嘔吐してたし

おしゃれでいようとする理由が自分を飾るというより

 

隠す、目を逸らす為

といった方が今じゃしっくりくる気がする。

 

おしゃれというセンスの良さがあれば

元々の土台はなかったことになりそうな気がしてたんだな。

 

そんなことに当時は気が付けるわけもなく。

だからおしゃれに血眼だったかもしれない。

(でも、好きは好きだけど。)

 

ダメだから、せめてそう見られる為に

ファッションを追いかけて、センスの良さを追いかけて

おしゃれそうな何かに必死にしがみつきたかった。

 

辛かったからか、やってきたことが滑稽で

なんだろほんと笑けてくる。

 

薄っぺらくて、しょうもなくて、でもそれに必死で。

それも私だからしょうがなくて(笑

 

仕事は何をしてるだとか

どこで働いてるだとか…

 

せめてそうゆうものだけでも

マシなものを手に入れときたかったんだ。

 

 

あー、そうだったか。と

 

本当に今更だけど

自分の頑張ってきたことの種明かしが

やっとされた感じがして

 

私が追いかけてきた夢や、なりたいものって

本当に自分そのものじゃなくて

なんか良さげな鎧を身に付けたかっただけなんだな、と。

 

 

 

何やっても辛くなるのって

自分のことなおざりにしてるからなんだよ。

 

 

 

 

 

でも、時代のせいなのか

そうゆう全体の流れに助けられて

自分の容姿について昨日の番組を見てたら

 

 

ああ、美しさって自分で決めていいんだ、って

 

 

肩の荷が降りるような

腑に落ちる感覚でやってきた。

 

 

容姿の整った人を見るたび

身体の細い人を見るたび

それとはかけ離れてる自分に悲しかったり

落ち込みがあった。

 

綺麗な人とそうでない人を振り分けてる自分を

見て見ぬ振りして辛くなった。

 

自然に比べて、自分なんて…と気分が沈む所までが

私の普通だった。

 

 

 

あの番組に取り上げられたそれぞれの人たちが

苦しんだり、悩んだ過去があったからきっと

同じように悩んできた自分に

ものすごく自然にその新しい概念がすっと浸透してきた。

 

 

 

番組の中でchaiのファンだという女の子が

自分の顔を題材にして作品を作っていた。

 

彼女自身の顔が作品になっていて

顔の凛描、鼻や口…

 

立体で作られたそれはきっと

自分の顔をなぞるように

作ったんだろうと思った。

 

その作品を横にして

彼女が今は自分を可愛いと思えるようになったと

笑っていたのが印象的だった。

 

 

ああ、本当だと思った。 

 

そして、それが正解だと思った。

 

自分が思うことが正解なんだ。

 

本当にもう、そうゆう時代なんだと。

 

 

 

 

叶姉妹のインスタも

ちょうど同じようなことを言ってた。

 

この人たちの美意識もオリジナル。

 

 

叶姉妹 kanosisters on Instagram: “「 叶姉妹がどんなに露出度高くても、興奮しないのはなぜ?」✨か、それは…💋✨✨ 久しぶりにこのような内容のツイートをお見かけしましたので、 以前からお話しております 私達の”当たり前”の精神性と 大切な叶のポリシーとマナーを 新しい年にあらためて お話ししておきますね。🤗💓…”

 

 

 

 

 

美しさが自分には無関係な

 

ずっと遠くにある誰かのものでしかなかった。

 

でも本当は、物凄く近い自分に関係あるものだった。

 

外に探すのはやめて、見出だして

 

自分がすでに大切にできているものと同じように

 

見つけた一つを大切にすればいい。