親目線と子供目線。
お正月は実家に帰っていた。
別に帰るつもりはさらさらなかったのだけど
お休みとれますよ、と
その時間を推薦されたみたいに
お休みを勧められるまま
有り難く休むことにした。
お金も両親がくれた。
ただ後ろめたさしかなかったあの頃を思えば
有り難さを感じられることが奇跡のようだった。
家族と話してて真新しいことなんて
あまりないと思っていたけれど
とんでもなかった。
最近疑問に思ってたことの答えを
母との会話に見つけた気がした。
自分で自分を責める
という私のお決まりの在り方を
やめたいと思ったり、それもまた責めるという
無限ループみたいなことが
どうやらやっと俯瞰できそうになったこの頃
この両親に育てられて
なぜそうなってしまったのかが謎だった。
父は確かに怖かった。
でも子育てをした母は
特に厳しい母という印象はなかった。
むしろ過保護な傾向の方があったはずで。
でも、ある場面では
そうではなかった事を思い出した。
多くの大人の集まりの中に
子供の私を連れてく母。
そこでは暗黙の了解で大人しくしてないとまずい
ちょっと特殊な場所
というのを子供ながらに感じるようになっていた。
そこだけでかなり沢山の
〝〇〇しなさい〟があったことを思い出した。
もちろんその場だけではないけれど
真面目な母の子育てが
真面目さを発揮されるような環境では特に際立った。
母も必死だった。
そっか、ちゃんと育ててくれたんだと
今は思うだけ。
でも無意識に
母の〇〇しなさいという
「ちゃんとすること」が目的になったその言葉から
ちゃんとしない自分を責めるという教育が
自分の中で始まったのかもしれない。
それが今や、ちゃんとしないことに
どれだけ丸を出せるかに重きが置かれてる。
そしてそれでも大丈夫だったと知るたびに
自分がどれだけ自分に厳しかったのかとも思うようになったし
周りの人の有り難さに気付くようになった。
その有り難さを分かる為の過去だったんだね。
家族って許せる人が増えると
それってなんだか楽しそう。