心に、素直に。

日々の備忘録

〝考える〟そのことが自分を活かすために使われているのか?

 

久々に〝はてな〟で書くブログ。

 

ブログ自体はずっと書いて来たけれど

その何年も書いてたブログを

あっさり閉じてしまった。

 

 

過去のブログは

自分の考えや思いを吐き出せる場

として使い始めた。

 

 

そのくらい頭と心に

溜め込んでおけないほどの苦しみや不満や恐れや悲しみなど

 

いわゆるネガティヴなもので

いっぱいだったから。

 

 

そんな吐きだすような内容から

やがて分析して解決する為や答えを導くために

私の書くという行為全部が変わっていった。

 

 

解決や答えを目的とする時の

自分の在り方(前提)は

 

〝今の自分がダメだから〟

 

そこからがスタートになっていた。

 

自分のダメさを探して見つけて書き出して

そこをどうしたらいいのか?

 

ここやあそこがいけないと

今の自分をよく責めて

 

未来に答えや解決があるような気がして

そのために考えて書いていた。

 

考えれば

苦しみから脱出できる

 

そう思っていたから

書くこと自体が停滞することはなかったけど

 

そのことで鍛えられた

私の〝考える〟は

 

なんだか疲れてしまう事が多かった。

 

 

それでここの所、その考えるが

とても気になりだしていた。

 

周りの人たちも私によく

考え過ぎと伝えるようになった。

 

でもそれですぐに

考えない、

 

なんてできる訳もなく。

 

 

考えるその事だうって

私を支えるためにそれが必要だからしてること

 

なんだとは思った。

 

その必要ってなんだ?

 

 

「絶対に傷付きたいくない」

 

だったと思う。

 

 

不安になりたくないとか

恐怖を感じたくないとか

 

そうゆう思いをしない為に

 

私は考えるを使っていたと思う。

 

 

それは無防備でいると危険だから

沢山準備しなければならないのと同じようなもので。

 

 

考えるきっかけは未来に起こる

リスク回避の為で

 

こんなことがあったらどうすればいい

そうゆう案件はどう対処すればいい

 

分からないでいることが

怖くてたまらなかった。

 

 

不安でいる自分、出来ない自分では

まるで裸のようでいられなかったから

 

沢山考えるようになった。

 

考えることで安心を作っていたらしい。

 

 

そうやって

「絶対に傷付きたいくない」

という願いを

私は叶え続けてきた。

 

 

結局、

考えないことは出来そうにないから

 

 

「傷付いてもいい」

 

というところから始めることにした。

 

 

考えない自分になるんじゃなくて

些細なことに傷付く自分にokする。

 

自分を変えるというより

今の自分を受け入れる。

 

 

頑なに傷付きたくないと

願い続けた自分にとっては

タブーみたいなものだけど。

 

それで

ブログを書かずに動画ばかり観ていた。

 

それがさくらももこ

コジコジ」だった。

 

 

 

 

 

まさにコジコジの在り方が

考えないってこうゆう風にするんだよって

お手本だった。

 

考えなくても大丈夫って思えなかった自分がいたのもよく分かった。

 

 

考えないと生きていられないほど

不安だったんだなぁと。

 

傷付くことも、不安も恐怖も

それがあることが特別になっていたけれど

 

それもあるよねと特別が普通のなると

 

それが強烈ではなくなる不思議を感じてる。